朝の一時

 徹夜には弱いが朝には強い。間断なく続く雨音に耳を澄ませつつ、アメリアは自分をそう思う。

 昨夜に降り出した雨は、どうやら一晩中続いていたらしい。目覚めたときに聞こえた音は眠りに落ちる間際に聞いたそれと同じもので、一瞬、時間が経たなかったのかと錯覚すらした。勿論そんなことはなく、窓を開けて見た空は雨雲に覆われてはいるものの、昇りだした陽の光を受け明るみを帯び始めていた。多分、前の日と大差ない時間に目覚めたのだろう。

 なのでそのまま普通に身支度をして食堂へと下りてきたのだが、他の仲間は未だ起きてこないし、数少ない他の泊まり客も姿を見せない。思えば、強くはないものの止む気配を見せない雨の中、早々に出立することはあまりないだろう。だから皆いつもよりゆっくりと起き出す態勢に入っているのかもしれなかった。いつも通りなのはアメリアと、仕込みを続ける宿の人間だけらしい。

 ぼんやりと腰掛けたまま暫し待ち、手持ち無沙汰になったアメリアは、取り敢えず手を上げて香茶を注文した。朝食はまだだ。自分は同席する者を待つ習慣が根付いているし、一人で食べ始めるのも終えるのもつまらない。仕込みの合間に用意される香茶が来る頃には、誰か一人くらいはここへ下りてくるだろう。そう思い、再び雨音に耳を澄ます。
 空全体から規則正しく落ちていき、その先を跳ねる音がする。少しだけ早い、春の雨だ。

 早く誰か来ればいいのに。この音はまた、眠くなる。

 そんな声が届いたかのように、程なくして階段を下りる足音が聞こえ、アメリアはひとつ瞬きしてそちらを向いた。リナだ。

「おはよ、アメリア」
「お早うリナ。他の人は?」
「そのうち起きてくるんじゃない?廊下では見なかったわ。あ、ごはんもう頼んだ?」
「いえ、とりあえず香茶だけ。リナも要る?」
「あーそれじゃあたしも。ごはんはじっくり選んでから……あ、おっちゃーん!香茶あたしの分も追加でよろしくー」
 厨房からの返事を聞きつつ、リナはアメリアの向かいに腰掛け真剣にメニューに取りかかる。毎朝のこの姿を見る度、アメリアは少し笑ってしまう。自分が朝に強いなら、リナは朝から本気、というものだ。
 運ばれてきた二人分の香茶と茶器を受け取って、注ぎ分ける準備をしながら聞いてみる。
「リナ、今日はどうする?」
「えーと……まずは温かいスープが必須でしょ。野菜は朝から温かいものは出ないみたいだけど、卵は選べるらしいから焼いてもらうとしてそうなると……」
「そっちじゃなくて。今日は出発するの?」
「ああ、そっちね。そうね……」
 そう言って、リナは顔を上げた。雨音を聞き、雨が降り込まないよう、少しだけ開けられた換気用の窓を仰ぎ見る。
「まあ、無理ね。この分だと下手すりゃ一日中続くわ。お昼までに止んだらそのときは出発できないこともないけど、無理に出ても次の村に着けないまま湿った地面に野宿ってオチになりかねないし。そんなの御免だし」
「なら、今日は一日ここで」
「うん。揃ったら後でまた話すから」
「了解」
 納得がいった所で、アメリアはリナの分を差し出した。
「どうぞ」
「ありがと」
 湯気の立つ香茶を受け取り、両手に包んでリナが微笑む。寒さを随分苦手とするらしい彼女は、温かいものを渡すとその温度を手で味わおうとするかのような仕草を見せることがある。なのに、飲むときは息を吹きかけ熱を宥めながら少しずつ口に含んでいくのだ。ひとつひとつが小さなその仕草が何だかとても好ましかった。
 その姿を眺めつつ、アメリアも一口、香茶を含む。朝なので砂糖は一杯だけだ。
 うっすらとした香りが広がり、舌から喉へ、やわらかい熱が落ちていく。雲の切れ間に入ったのか、空気に少しだけ明るみが差し、リナの栗色の髪をほんの一時、薄い色に見せて去っていく。絶え間なく続く雨音の中アメリアはそれを見た。

 アメリアは寛ぎ、瞼を下ろしてしまいたい誘惑にかられた。うん、今日はいい日だ。

「……決めた」
「何を?」
「昼寝」
「昼寝?」
「ええ、今日はわたし、お昼寝するわ。いい日だもの」
「いい日って。暇な日っていうなら分かるけど」
「のんびりする日ともいうかしら。とにかく、こんな日はめったに有りませんから」
 やるべきことも多かったし、とかく人目が多い環境にいる身としては、昼寝をする機会は意外と少なかった。もしかしたら、今日のこれは子供の頃以来になるかもしれない
 偶にはこういう日があっても良い。
「……ま、別に止めないわ。好きにして」
「ええ、そうする」
 あっさりと任せるリナの手に包まれた香茶を見て、アメリアはもうひとつ、してみたいことを言う気になった。
「乾杯しましょうか、リナ」
「何に?」
「何でもいいじゃない――強いていうなら、休日に?」
「変なの」
 言葉は訝しげながら、苦笑がちにリナは付き合い、掲げた香茶をこん、と触れ合わせてくれる。

 ようやく階段を下りてきたゼルガディスがそれを見て、不思議そうな顔をした。



おめざの一杯。