誓月秋
月の明るい夜だった。そのことをよく憶えている。視界を染める赤い闇。
無明の闇を抱く光。
そして――
遺跡の出口を抜けると変わらぬ闇が広がっていた。
いつの間にか夜になっていたらしい。雲に覆われた空は光をもたらさず、頭上に固定した
ゼルガディスの手には何も握られていなかった。
いつものことだ。噂を聞きつけては遺跡や怪しげな所に潜るようになってから随分経つが、そこを出るとき何かを持っていたことは 殆どない。自分の役に立つような書物や書き付けが見つかることはほぼなかったし、見つけても役に立たないものと分かればその場に 捨て置いていく。金目の物でもあれば路銀の足しにするため有り難く拾っていくが、そうしたものが見つかることも少ない。一番多いのは、 今日のようにがらんどうの遺跡を見聞して手ぶらで出てくることだった。だから、これは何の変哲もない、日々繰り返す生活の一幕に 過ぎない。
そう思うことには慣れたし、実際それは事実だった。しかし、その度に落胆することには未だ慣れないし、慣れたくもない。それに 慣れてしまうとき、生ける屍のようになって自分は終わってしまうだろう。そう思う。
当てもなく歩きながら、乾いた地上の空気を吸い始めた途端、喉が渇きを覚えたことに気付いて足を止める。荷を探って水筒を 抜き取り、手持ちの
水が欲しい。改めてそう思い、ゼルガディスはふらりと歩き出した。
ここに来る道すがら、木々の間から湖が見えた。そこへ行けば清水にありつけるだろう。そうでなくとも、今いるような木々の 密集した地面では座る場所にも苦労する。ここより少しは地面の開けた、ましな場所を見つけて夜を明かそう。何でもいい、ともかく ここよりは別の場所に行きたい。その一心だった。
何を考えるともなく歩くうち、突然目の前が開けた。
夜目にも分かる広い空間。木々の立ち並ぶ姿はなく、吹き抜ける風に沿って微かに細波の音が聞こえてくる。 目指す場所に辿り着けたことに安堵して、ゼルガディスはそこへと歩み寄った。
水際に立ち、殆ど消える間際の
微かな光の照らす周囲がよく澄んでいるのを見て、安心してその水を掬う。口に含んだ湖水は冷たく、ほのかな甘みをもって 喉を静かに流れていった。それを飲み下し、目を閉じて深く息をつく。長い息と共に、疲れが吐き出されて行くようだった。
目を開けると、
その必要が無くなったことを知った。
音もなく、背の向こう側から光が満ちてくる。振り返り仰いだ先の空で雲が急激な風に吹き散らされ、真円の月が現れる様が見えた。 周囲に環を浮かび上がらせるほど強い、皓い光。闇に慣れた目にそれはひどく眩しくて、目に灼きつくようだった。
「満月だったのか・・・・・・」
誰に聞かせる訳でもなく声が漏れる。
湖の方を振り向くと、背から光を受けたことで、湖面に自分の姿が映っていた。ここ暫く鏡を見ることもなかったことを思い出し、ゼルガディスは 久々に目の前に現れた己の姿を凝視した。
初めてこの姿を見た時には恐慌と絶望に襲われものだ。青黒い岩のような皮膚に、金属そのものと化した髪。人間という生き物を 形作る筈のない構成物。血反吐を吐くような想いで叫び歯を食いしばり、気付けば噛み切っていた唇から流れる血が変わらぬ深紅をしていたことで 微かに希望を覚え、踏み留まることができた。その様を、どこか他人を見るように認識していた己のことを思い出す。
今は何の感慨も湧かない。湖面に映る顔には恐怖も憎悪も――そして、絶望も諦観もない。
そんなものは、あの日、あの夜。暗い森の中で砕け散った。
その言葉が湧いてきたことに驚く――あの夜とは何だ。
――あの夜、そうだ。あの時のことだ。
記憶の蓋を開く鍵となった、己の姿を映し出した光源を振り仰ぐ。その視線の先で月は変わらず皓々と輝き、そこに在った。 それを見上げるうちにふと思いつき、ゼルガディスはその場にゆっくりと倒れ、手足を伸ばして仰向けに横たわる。背中の石片が圧し当たる異物感も、 冷えた地面の堅さも、今だけは何も気にならない。常では間違ってもする気にならないような、無防備な姿。そう、自分からこんな無防備な姿を 晒して横たわったことは、一度しかない。
あの夜と同じだ。
赤い闇と出遭い生き残った、一年前のあの夜と。
日々暦を読む暮らしなどしていない。だからあの日が暦の上で何時のことだったかなど知りはしない。しかし、おそらくあれは 去年の今日のことだったのではないか。あれから季節が一巡りしようとする今、見上げる空の先、皓々と降り注ぐ月の光は 同じものであるような気がしてならなかった。
月の明るい夜だった。そのことをよく憶えている。
あの夜、皓々と輝く月の照らす暗い森の中、信じ難いものを見た。視界を染める赤い闇。無明の闇を抱く光。そして――それを 掲げる小さな背中。
その向こうに投げかけた己の声に、赤い闇の底から応えた
どれ一つ取ってもひどく現実感のない、それらのもの。
なのにその核である人物はというと、やるだけのことをやってしまったら瞬く間に寝入ってしまった。心地よさそうに、安らかに。 そしてその側にいた剣士はというと、それを見ながら風邪をひくんじゃないかという心配をしていたものだ。それらを側で見聞きした自分は、 つい先刻までの状況から続くものとは思えない、余りにも平和で普通すぎるその光景に、何もかも忘れて吹き出してしまったものだった。
――そういえば、
胸の内でそう呟く。
そうだ。あれは、あれだけのことがあったとは到底信じられない、ひどく安らかな夜だった。
あの時、思い知ったことがある。それは、世界は己の尺度で測れなどしないということだ。
伝説は現実となり、不可能は可能となった。そんなことは在るはずが無いと信じていたものが、粉々に打ち砕かれた。 それがどれ程の衝撃であったことか。
そして、それだけのことが起ころうと、過ぎてしまえば何事もなかったかのように世界は回っていた。 それまで己を取り巻いていたものは消え、なのにそれで何が変わることもなく、他のもの淡々と続いている。何もかも先刻までとは違う はずなのに、何も変わらない。それがどうにも信じられなくて、説明などできぬ思いと、微かな寂寥感と共に、ただ周囲をぼんやりと 見つめていたことを思い出す。そして、最後にはこうして無防備に身を投げ出し、月を見上げながら寝入ったのだ。
そう、こうしているとあの夜を思い出す。
何もかもが容赦なく変わり、過ぎていったあの夜を。
――いや。
変わらぬものが、まだここにある。
その思いが湧き出して、ゼルガディスは右手を差し伸べる。
皓々と照らす月に向かって。
水の乾かぬままの手は色が濃く、月光を受けて石そのものの姿を見せつけた。
あの時から変わりはしない。この身も、視線の先にある月も。
それが胸の内に浮かんだとき、身の内に滲み、湧き上がるものがある。
その何かを受け入れて、ゼルガディスは明確にそれを言葉に変えた。
「足掻いてやるさ」
そう、足掻けばいい。どんなに可能性が低くとも、足掻けばそれが可能になることが、ある。自分はそれを一年前の夜に確かに見た。 だからそれは事実だと知っている――信じられる。
だからその言葉を口にする。それが今この身を成す根幹であり、そして――誓いだ。
この先、何度でも同じことを繰り返し、今日のように疲れ落胆する時が来るだろう。その時にはこの誓いを思い出し、守り抜け。 誓いはこのひとつだけでいい。これさえ守ることができれば、後のものは全てこれに付いてくる。だから、このことだけは忘れるな。
己以外に誓うことが必要ならば、その対象は月でいい。姿が見えずとも、何があろうと、月は変わらずそこにある。それに 対する誓いは普遍のものとなるだろうから。
そう思いながら手を下ろし、目蓋を閉ざす。
このまま眠ろう。獣の気配はなく、野盗の気配もしない。もしも何かが現れたとしてもそれくらい気付く。それほど鈍してはいない。 だから今夜だけは何もかも気負わずに、あの夜のように安らかに眠ろう。
朝が来れば