訪始春

 本宮を出たアメリアは周囲を見渡して、ひとつ大きく伸びをした。

 冬の寒さをくぐり抜けてもなお青々とした芝生が、降りかかる日差しに撫でられて葉先をうっすらと光らせている。 空はよく晴れ、白い雲を溶け込ませて全体を薄い水色に見せていた。身を包む空気はまだ冷たいけれど、やわらかな日差しがそれを 包み込み、忘れさせてくれる。眠気を誘う午後だった。

 そのあたたかさに気付き、アメリアは自分の居室のある巫女たちの詰め所へと向けていた足を、逆の方へと転換した。この早春の 時期にだけ、必ず向かう場所がある。其処は本宮にほど近い離れの側であり、場所柄立ち入れるものはごく少なく、人気のない一角と なっている。アメリア自身、十にも満たない頃に王宮探検と称して走り回り、足の向く限りあらゆる所へと顔を出さなければ、知らぬまま 終わってしまったかもしれぬ場所だ。
 そして、その場所を特別にしているものは早春のこの時期にだけ現れるため、気付いている者は殆どいないようだ。実際 アメリアはその場所で他の人間がいるのに行き合ったことがない。だから何となく、そこは彼女の秘密の場所のようになっていた。

 ――きっと、今日だ。

 胸の内でそう思いながら足を運ぶ。瞼の裏にその姿を思い浮かべると、足が速まるのは止められそうにない。
 いつしか走り出したアメリアの後を追うように、身に纏う巫女服の裾が、縁取る刺繍の重さを感じさせずにふわりと浮き広がった。





 「うわあ……!」

 読みは正しく、目にした途端に堪えようのない感嘆の声が漏れた。
 アメリアは駆け寄り、幹に手を当てその上を仰ぎ見る。

 目に映るは、白。大振りでしなやかな花弁を無数に集めた花と、それを支える幾多もの枝。白木蓮(はくもくれん)と 呼ばれる大樹が此処にある。
 この樹は早春のごく短い間だけ、今が盛りと花咲く姿を見せる。大振りの花弁は風を受けやすく、強い風が吹けば一時に全ての花を散らせてしまう。 その姿を潔いという者も、儚く哀しいという者もいて好みの分かれる花木らしい。あと一日遅ければ、今年はこれだけの見事な姿を見るのは 間に合わなかっただろう。今日の今ここに来ることを決めた自分を、アメリアは存分に褒めてやることにした。

 無数の枝の合間に覗く空の色との調和に目を細めながら、咲き誇る花々を見上げる。翳した手に沿って白く広がる袖が揺れ、滑らかに腕を伝い落ちた。 白く厚くしなやかな花弁が無数に集い揺れる姿は、自分が着ているものと同じ巫女たちの袖が寄せ集まり、はためく様を思わせる。 どんなに眺めても見飽きぬ、惹きつけられてやまない姿だった。

 アメリアの知る限り、王宮の敷地内にある白木蓮はこれだけだ。王宮の構造は熟知してはいるけれど広すぎて、実際に足を 伸ばしたことのない場所はまだまだ存在する。だから他の場所にないとは断言できないが、それでも何となくこの樹だけだろうと思っている。

 王宮には幾多もの庭園があり、無数の植物が植えられている。最たるものはやはり薔薇だ。薔薇のみで構成される庭園も 存在しており、春と秋の盛りには見事な姿を見せ、見る者の目を楽しませてくれる。そして無論薔薇だけでなく、数多の種が盛りを迎える春の庭、 色彩濃く大振りの花を集めた夏の庭、紅葉と結実への変遷を愛でる秋の庭、長い寒さにも耐えて咲く花のための冬の庭――そして、神殿の 魔法医たちの使う薬草や、儀式の際の香となる香草などを一定量栽培する為の温室までもが存在する。美しく珍しい花々も、利用する為の植物についても、 どちらも汎用的なものから非常に珍しいものまでこの敷地内には存在する。だから白木蓮があっても不思議ではないのだが、見せる・ 使う、という目的と計算のもと備えられたこれらと違い、この樹はそうしたものから外れた存在のように思えるのだ。

 おそらく、この樹はセイルーンの誕生よりも先に此処に在ったのだろう。白木蓮の種は、感嘆すべきことにこの世界の始まりから 姿を全く変えていないと伝え聞く。きっと、セイルーンの建国の時には今と同じ姿で此処に生えていたのだろう。 六紡星の壁に沿うように王宮の建物をひとつずつ増やしていった建国の時代、敷地内の雑木は数え切れないほど伐採されたのだろうけど、 そのときから白い花をつけていたであろうこの樹は、その見事さゆえに残されたのではないか。けれど大き過ぎるゆえに他の場所に 植え替えること叶わずここに残され、結果見る人もほとんどいないまま変わらず咲いているのではないかと、アメリアはおぼろげに思っている。

 それが、嬉しい。自分はこの樹が此処に在ることで、様々なことを知ったから。

 この樹の枝は天を目指して伸び、そしてそこから生まれた花は常に北を向くという。 そのことを聞いた日、どうしてもそれが真実か確かめてみたくなって、方位を知りたいと姉にねだってみたものだ。 すると姉はどこからともなく探方晶珠(コンパス)を持ってきてくれた。 水晶によく似た透き通る石を固め、銀色の方針を封じたそれはくるくると踊り、見事に花と同じ先を指した。その時の 自分の歓声と、微笑みながら見守ってくれていた姉の姿が、昨日のことのように鮮明に蘇る。

 姉はこの花を好まないと言った。今そこに咲き誇っていたものが一時に散ってしまう様が哀しく気に入らないのだと。 そして長く艶やかな髪を払いながら、食べられる実も生らないしね、と誤魔化すように言いつつ胸を張り、高らかな笑い声を上げたものだ。 そんなもので誤魔化される人はいないし、花より果実のひとだけれど、きっとあれは姉の本心だろう。そのことも、そう思う理由も解るのだ けれど、それでも自分は姉とは違ってこの花を好む。

 アメリアにとって、この樹は未知への憧れを育む存在だった。この樹の生む花の先には北の――カルマート公国や ディルス王国、竜たちの峰(ドラゴンズ・ピーク)――それら、話に聞く場所が 存在する。そのことを知ってからは、この樹の下に立つたび、花の向く先に在るそれら未知の世界について幾度となく思いを馳せたものだ。  だが、今はそれらを別の思いをもって追いかける。先の一年でそれらは最早見知らぬ地ではなく――己の目で見、足で踏みしめた 場所となったから。
 今はこの樹の下で思う。かって辿った旅路と、そこで見知った出来事のことを。そしてそこには旅を共にした仲間たちの姿が 絶えず重なって映り込む。

 その中で、アメリアの脳裏に思い浮かぶ光景があった。

「――そういえば、リナもあれと同じものを持ってましたっけ」

 旅路では何度となく同じ部屋に泊まることがあった。他人の荷物を覗き込むようなはしたない真似をしたことはないが、 同じ部屋で寝泊まりすれば片方が中身を整理するのに行き当たることもある。そういう時、リナの持ち物は色々と珍しくて分からないもの ばかりだったのだが、探方晶珠(コンパス)だけはすぐに分かったものだ。因みに、 珍しいわねと言うリナに、これを何に使うの?と聞いてみたのだが、企業秘密だと言って教えてはくれなかった。そのつれなさに何となく 拗ねて、その言葉ゼロスさんみたいよと言ってみたところ、盛大に嫌がってくれたのはいい思い出である。

 あの旅路でひとつ残念だったことがある。彼女らと旅立ったとき、もしかしたら修行の旅に出たままの姉に会えるかもと思っていたの だけど、それは叶わなかった。もし何処かで姉に会えたなら、リナと引き会わせてみたかったなと今も思う。 姉は何となく、リナとやたら張り合おうとするか気に入ってしまうかして、面白いことになりそうな気がするものだから。

 ――リナ。

「今、何してるかしらね?」

 呟きを漏らした瞬間、アメリアは苦笑した。それは考えるまでもないことだったから。
 別れの直前、彼女は言っていた。傍らの剣士と共に、彼が使うための新しい剣を探しに行くのだと。だからきっと、 今頃はそれを理由にして世界中のあちこちに二人で足を伸ばしては、賑やかにやっていることだろう。
 あの二人はああだし、魔剣士の青年は今も目的を果たす為に何処かを彷徨っているだろうし、神官の資格を取ろうとしている彼女とは その後も何度か会うことができた。皆、それぞれの道を歩んでいる――それは推測ではなく確信であり、事実だ。

 その結論により旅路を辿り終えたとき、続く思いにアメリアは眉を顰めた。

 彼女らと知り合い、そして旅を共にしたあの出来事は、終わった。ひとつの悪は滅び、セイルーンの動乱やディルス王都の大火も 一応の収束を見せている――関わった者たちに、いつまでも消えぬ痛みと爪痕を残したけれど。だから、ひとまずの安心を覚えても 良い筈だった。

 なのにこの頃また胸騒ぎがする。それは、かっての出来事の中核であった彼女に言ったものによく似ていた。

 再び『何処か』で『何か』が動き出そうとしている――それは、何故そう思うかと聞かれれば、なんとなくとしか言いようがない 巫女の勘によるものだ。けれども自分はこの勘を、いや、己の勘を信じている。だからこのところどうにも胸騒ぎがして落ち着かない。

 そしてごく近日、その勘を裏付けるような報せを聞いた。セイルーンの北端と接するカルマート公国、そこで原因不明のデーモンの 大量発生が起きているのだと。

 聞いたとき、やはり、と思った。

 あの時と同じようにまた『何か』が動き出そうとしているのだろう。それは、あの時とは違って、大きく目に見える形で 表れた。そしておそらく、それは再び魔族によるものだ。その確信がある。
 アメリア自身は最早魔族というものが存在することを当たり前に知っているが、多くの人間は「魔族」という存在そのものを 御伽噺のように思っている。それが、デーモンの大量発生という事実を目にして驚愕し、慌てふためいていることだろう。今はまだ セイルーンではそれが起こってはいないものの、国境を接する国で起こったことだ。じき、こちらにも同様の騒乱が巻き起こる ことは想像に難くない。その時にすべきこと、その前に備えるべきことは頭が痛くなるほど幾らでも挙げられる。

 だから今、思う。

 今度は後手に回らぬよう、守りきれぬものがないよう、動き出そう。今度こそ、己の手の届かぬままで全てを終わらせたりはしない。 自分が立つ場所は王宮(ここ)だ。信ずる正義を貫こうとするとき、己の立場はそれを 妨げるかもしれないが、上手く使えばこの上ない後ろ楯ともなるだろう。ならば、それを存分に使ってやるのみだ。寝かせて腐らせて しまうには、余りにも惜しいものだから。

 昨年の動乱でセイルーンは激変した。叔父は表舞台から消え、従兄弟はその手で散った。これによりアメリアの立場も変わるかもしれない。 春が深まり期が明ければ、何かしら新たな役目を背負うことになるかもしれず、忙しくなるだろう。ついでに、姉がいつまでも 迷子になって帰ってこないようならば、探して連れ帰ることも必要になるかもしれない。

 訪れるものを迎え撃ち、必要とあらばこちらから訪ねていこう。この世界の何処であろうとも。

 ――何もかもまた、此処から始まる。

 ふいに風の迫る気配がして、アメリアは空を仰ぎ見た。

 見上げる先遠く、白い花が強い風に煽られ、無数の花弁が枝から一斉に離れて空に舞う。
 花弁を散らした勢いのまま、風は樹の下のアメリアの方へと吹き流れ、巫女服の袖を、裾を大きくはためかせた。

 その周りへ、舞い荒れる花弁が降り落ちる。あるものは地面を叩き、あるものは巫女服の表を打ち、それぞれの場所へと散っていく。

 花弁が地面を叩く音を、巫女服を打つ感触を、アメリアは身動きもせず受け止める。

 春が来る、抗いようもなく。
 この花が全て散るとき、本当の春が訪れる。

 それを見届けたとき、自分は再び動き出すのだ。何もかも始まるこの場所から、己の心の向く方へ。



<ホウシシュン>
始まりの訪れる春。