てのひらの熱
「やっちゃった……」あたたかな香茶が満ちていたカップは、床に滑り落ちた途端破片に姿を変えてしまった。
中身はしっかりいただいて空になっていたのが救いだけど、もったいないことにかわりはない。
慌てて床にかがみこみ、破片を拾おうと手を伸ばす。
「いたっ」
……ああ、またやってしまった。ちょっと今日はたるんでるわ。
右手の人差し指に走った赤い筋が情けない。
いつもなら手袋をしているから、カップの破片くらい触れても全然大丈夫。 でも、こんな雨の日は一日中宿から外に出ないから、今日は着けずにリラックスしてたんだった。
反省しつつ、指先に浮かんだ珠をぺろりと舐めて、
魔力の無駄遣いと言うなかれ。なんたって利き手の一番使う指。治せる時に治すのが、旅人としての基本である。
勿論こんな傷にも入らない傷、瞬く間もなく元通り。
そんなときこんこんとノックの音がした。
「リナー、いいか?」
「どうぞ。開いてるわ」
おう、という声のすぐあとに、自称保護者が顔を出す。
「なんか暇でな……って、どうしたんだ」
「ん。ちょっと落として割っちゃった。片付けてたんだけど」
「そうか。怪我とかしなかったか?」
「ちょっと切ったけど大丈夫。治したから」
「え、切ったのか、どっちの手だ?」
途端に慌ててガウリイはしゃがんであたしの右手を取り、その目の前に広げさせた。
いくら保護者とか自称してたって、そんなとこまで心配することないと思う。
「だから、治したから大丈夫だってば。ほら、この手だったんだけど、どこにも痕もないでしょ?」
「ほんとだ、良かった。きれいに治ってるな」
「当然よ」
それでやっとガウリイはほっとしたのか、心配げな表情が顔から消える。
なのに右手はまだ繋がれたままだった。
そしてそのまま、何だかまじまじとあたしの可憐な手を眺めて呟いた。
「ちっちゃい手だなあ」
「あんたのが大きすぎるんだって」
「いや、やっぱりちっちゃいぞ。ほら手のひらなんかここまでしかない」
そんなことを言ってくれながら、ガウリイは手に取ったままのあたしの右手、その手のひらを指先ですっと辿り上げた。
「ちょ……くすぐったいってばぁ」
「敏感だなー」
「馬鹿。離してよ」
握られたままの手のひらを、わきわきさせながら抗議する。
別に嫌な訳じゃあないけど、こういう雰囲気というのはどうにも慣れなくて、どうしたものやら身の置き所がないのだ。ガウリイは平気な顔をしてるのが、ちょっと腹立たしくて同時に羨ましい。
そのガウリイと何だかまともに顔を合わせることができなくて、うろうろと視線が彷徨ってしまう。 そんなあたしの反応が楽しいのか、ガウリイの唇、その端が微かに動くのが視界に入る。
そのときいきなり金色の頭がすっと下がり、唇が手のひらに落ちてきた。
「ひゃっ」
こんなところにいきなり来るなんて、いくらなんでも不意打ちだ。だから、変な声が飛び出したのは、 全部ガウリイのせいなのである。
「ななななんでいきなり……っ」
「いや」
あたしがこんなになってるというのに、元凶は屈託なく笑って言ってのけた
「ここにしたことはなかったなー、と」
「―――!」
耳の端まできっと真っ赤になっている。まだ握られたままの手のひらを、閉じたり開いたりしてじたばたするあたしを見て、 ガウリイは笑ってやっと手を放してくれた。
駄目、不利だ。このままここにいては負けてしまう。よくわからないけどきっとそうだ。だからあたしは慌てて立ち上がり、真っ赤な顔がこれ以上見えないように、くるりとガウリイに背を向けた。
「カップ、女将さんに謝ってこなきゃ。ついでにお詫びがてら何か追加で注文してくるわ」
「何かおやつになるものも頼んできてくれよ」
「ちゃっかり自分の分も貰う気?」
「いいだろ。これ片付けておくからさ」
「きれいにやってよ」
「了解」
そっと破片を拾い始める音を聞きながら扉をくぐり、そのまま廊下の壁にもたれかかる。そしてこっそり深く息を吸って吐き出した。この音が部屋の中に聞こえていませんように。
まだ、さっきの感触が残っている。ほんの一瞬しか触れなかったのに、ガウリイの乾いた唇の感触は、何だかとても熱かった。
どうしようもなく恥ずかしい。額や頬にされたときも、やけに鼓動の音が聞こえたし、それ以外の場所なんて全身が心臓になったような気すらしたものだ。
あれ以上恥ずかしくなるとこなんてないと思ってたけど、前言撤回。どこにされたって同じくらい熱くて鼓動が聞こえるものなんだって、理解した。
屈託なくやってくれたものだけど、ガウリイだって一度されてみればいい。どれだけ熱くて、どんなに気持ちがおかしくなるか、 少なくともあんな余裕は保っていられなくなる筈だから。
いつか必ず不意を突いて、この熱くてじたばたする感じをお返ししてやらなければ。
だから、これはその日のための練習だ。
そうしてくちづけた手のひらは、まだまだガウリイの熱を覚えていた。