そうして森に入り、丸二日をここで過ごした。
 目覚めたのが意外と遅かったのか、太陽は既に上りきっている。

 足を踏み入れた森は、当初の予想とは違い、全く予想外の場所だった。
 そう大きな森ではないのだが、半日歩き続けても一向に進んだ感じがしない。また、足を止めた瞬間景色が歪んで見えたりする。森に入った瞬間から目や耳の感覚がどうにも定まらない。
 それに何より、空間そのものに強烈な違和感が満ちている。不愉快というわけではないのだが、説明のしようがない、これまで感じたどれにも似つかないような感触がするのだ。

 日が落ちるのを二度見たから、時間の経過だけは感じている。それがかえって焦燥を募らせた。

 つくづく忌々しい。自分の目的を達成する為にはこんな所で足止めを食らっている場合ではないのだ。
 そうは思うものの、動く当てもなく太陽を眺めていたゼルガディスの横手に、妙な気配が現れた。

「――これはこれは。
珍しいところでお会いしましたね」
「――ゼロス!?」

 突如現れた存在に、ゼルガディスは驚愕の声を上げていた。



「……なんでお前がここにいる」
「嫌ですねえ。そんなにいきなり敵意を向けられても」

 言っている内容とは裏腹に、にこやかな笑みを向けてくる相手に腹が立つ。

 以前と全く同じ姿をしていて、黒髪に、どこといって特徴のない顔には食えない笑みを浮かべている。 記憶のとおりの黒の神官の装束を見て、村で聞いた話を思い出した。

「――村で話を聞いたとき去って行った神官がいたとか聞いたが――そうか、お前か」
「そうですね。いちいちひとの頼みを聞いてるのも面倒くさいですから。
まあ、話を覚えてはいたのでここにいるという訳ですが」
「今頃何をしに来た」
「何だかけんか腰ですねえ。久方ぶりに会った相手にそんな態度ではいけません」

 友好的な態度になれる筈がないことを知っていながらそう言ってくる。

「このところごたごたしてましたが、まあ――色々片付いたので通常業務に戻ったんですよ」
「……通常業務だと?」
「ゼルガディスさんは知っているでしょう。僕の仕事」
「……ああ、腹の立つことにな」

 この掴み所のない顔をした男の本業は獣神官であり、れっきとした魔族である。通常業務と呼ぶのは異界黙示録(クレアバイブル)の写本の始末―― 人間に余計な知識を与えないことだ。
 この魔族と初めて行き会ったのもその通常業務の中であり、その時は目の前で写本を焼かれ、煮え湯を飲まされている。
 思い出すだけでも腹の立つ光景だった。

「――ということはまさか、ここに写本の手掛かりがあるとでもいうのか」
「――そういうものはありませんよ」

 にこやかな笑みのまま返される。

「そんなものがあるなら、間違いなく首を突っ込んで来るゼルガディスさんの前に現れたりはしません」
「……そうだろうな」

 無用の手間が増えることを面倒くさがるゼロスならばそうだろう。そして、嘘は言わないことも分かっている。
 この件についてこれ以上会話をしようとするのは無駄だろうと見切りをつけて、ゼルガディスは先程の会話でひっかかった 言葉について問いかけた。

「さっき『最近ごたごたしていた』と言ったな――ここしばらくデーモンが大量に発生したり、気温が異様に変動したりしていたが、 あれのことか。
 もし言う気があるなら言え。そして、今は何を企んでいる」

「それは秘密です」
「知るか」
「そんなつれないことを言わないでくださいよ」

 よよ、と泣き真似をする神官を見て、つくづくふざけた奴だと思う。事情を知らない人間が見れば、これが魔族の中でも 魔王とその腹心を除けば一、二を争う実力を持つ存在だとは信じられないだろう。

 人間にとっては脅威でしかない存在だが、幸い、基本的に自分の利とならないことには不干渉という立場を取っている。だから、 行き会ったからといって気まぐれに殺されるということはないと思う。
 ひとつ問題があるとすれば、利にも害にもならないが面白そうだという感情を抱いた場合は人前にも積極的に現れるということだ。
 おそらく今がまさにそういう状況だろう。

「ならば結局、こんな所で何をしている」
「……まあ、今は本当に通常業務ですよ。あちこちを回って、写本の情報があれば真偽を確かめ、本物であれば始末する。
 今はまあ特に目新しいものもありませんでしたのであちこちふらふらしてたんですが――この森の話を思い出して一応見てみるかと思いまして。 で、来てみたら実に居心地の良いところですし、ゼルガディスさんが負の感情など撒き散らしながら座っていらっしゃるのでご挨拶でもと。
 いやあ、実に面白いところですね。
 ――ああ、何か悪い夢を見たのかなどと失礼なことを聞く気はありませんからご安心を。
 聞かなくても分かることをいちいち聞くような趣味は僕にはありません」

 ぎり、と奥歯の鳴る音がした。
 ゼルガディスがどんな夢を見て、何を思って負の感情を生み出しているかなど、異形のままの姿を見れば知れる。 この食えない顔をした神官は、単にそのことを蒸し返し、滲み出る新たな負の感情を楽しんでいるだけだ。

「……こんな陰気臭い森は、お前のような奴には居心地が良いだろうよ。
好きなだけ居ると良い。俺はもう出て行かせてもらう」
「おや、出て行けるんですか。人間がこの森を歩くのは少々骨でしょう」

 痛いところを突かれた。
 
 ゼロスの言うとおり、この森を抜ける方法には全く見当がついていない。分かっていればゼロスの顔を見た瞬間から 踵を返したいくらいであった。

「……この森は何でまたこんなことになってるんだろうな」
「ゼルガディスさんはどんなふうに考えてらっしゃいます?」
「最初は魔法迷宮(マジック・メイズ)かと思ったんだが……
 しかしこの感じは……あれとは似ても似つかないな」
 人里を離れて研究に篭る魔道士というのは結構居る。そうした魔道士が、研究の邪魔をされないため――あるいは研究の成果を 盗まれないように、研究所の周りに魔法を施し、擬似的な迷宮を作り出して侵入者を拒むということは稀にある。
 ゼルガディスがこの森に興味を抱いたのも、村人の気付かないうちに魔道士が研究の為の住処を作っており、森を迷宮化したのでは ないか、それならばその魔道士から、何らかの情報を得られるのではないかと考えた為だった。

「そうです。人為的な迷宮などではありませんね。
 ――僕たちにとっては中々居心地の良いところですが、あなたがたにとっては奇妙な感じしかしないでしょう」
「どういうことだ」
「――今ここは何といいますか――」

 その時、木立の向こうで光が閃いた。

「――何だ!?」
「――誰か居ますね」

 ゼロスの言葉を背にして、ゼルガディスは光の方へ走り出した。
 何があるのか分からないが、いつまでもこの魔族と一対一で話しているよりはずっとましだ。

「つくづく嫌われてますねえ。ま、頑張ってください」
それだけ言うと、神官の姿は掻き消えた。





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